心には三つの層に分けられるという。表層は自我、その下は霊魂、一番下が根源的な自己。表層の自我は流れる心に偏りをもたらし、真の認識を妨げてしまう。そこで人はそのはたらきを静めて根源的自己としての心のレベルにたどり着かなければならない。
つまり、根源的自己のレベルというのは流れる身体と心が表層の自我に歪められずに身体のあらゆる部分に満ちわたる状態のこと。 この状態で人は世界と一つにつながって、気の流れの場を共有する。身体に気が満ち、まわりの自然にも気が満ちているわけなので自分と世界は一つの流れの場になってしまう。ここでは他者と自分は流れの中にあるのだから流れは回っていく。
表層的自我でも心は外に出るけれど自分と世界は流れていないので流れは止まってしまう。心を失う。心の中の気も失う。(石田秀実・・・気と身体より)
と言う事は感情も含めて気が滞ると何事も空回りをしていくと言う事なのだろう。気を充実させるとなんでも思いのままとなる。
自分と世界が同じ気の流れになるのは自己のコントロールが出来るようになること。とうてい今の自分には遙か彼方の事。実際、プリプリ腹が立って仕方がないことばかり起こる。立腹すると自分と他者は気は流れない。やり過ごせれば気は流れるのだろうか?やり過ごす、立腹しないというのは至難の業。修行が必要だ。幸せは不幸な顔してやってくる。というがこの試練は成長のステップになるのだろうか。
気をやって、自分の至らなさが解かってモヤモヤするこの頃である。腹も立てずにニコニコしていられるようになりたいなあ。
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